多峯主山の前面にあって、一大岩壁の突き立つ所を前岩とよんでいますが、ここに古くから小社が鎮座して、多峯主山一面を守っていました。
江戸時代の末期に与平という入が、かねてから琴平宮を屋敷内にまつり、ひそかに信仰していました。
当時この山一帯は、黒田氏の領地で飯能村寄合名主の大河原氏か領主の委任を受けて管理していました。与平は大河原氏の依頼によって曽根刈りなど山刊事に当たっていましたが、ある日、前岩付近て昼寝をして目がさめてみるといつの間にか山麓にころげおちていました。不思議に思った与平は、この山に琴平宮をまつることを決心し、百余段の階段を築き、一族とともに参拝したといわれています。
明治の初め、御嶽教がさかんになり、丸田開元という人が中心となって、名主大河原又右衛門とはかり、信州の御嶽神社の分霊を安置し、同時に講をおこしました。その後明冶40年、武人八幡を合祀し、御嶽神社を改めて御嶽八幡神杜と改称しました。
御嶽八幡神社境内に併設されている、本郷八坂神社